チラシの裏

子供の頃、ニュースキャスターになりたかった。

人前で喋ることが好きで好きでたまらなかったからだ。

小学校の児童会長になって、はじめて朝礼台の上に立った時の風景をよく覚えている。

全校生徒750人が並んでいて、みんなが自分のほうを見ていた。言い方は悪いけど、最高に気持ちが良かった。

その頃はまだ、その少し後に自分が引きこもって人と話すのが嫌になる時期がくるなんて思わなかった。自信満々だった。

大人になると、自分が何かを話したり書いたりすることに自信があるのか無いのかよくわからなくなった。

でも、元来それが大好きで得意だったはずだから、働くようになると今度は懸命に意見を言うことに努めた。

自分が思っていることを話すということについて気を使わなければいけないなんて子供の頃は考えもしなかったけど、人が集まる場では何か意思表示をしないとそこに存在する意味が無いと思っていた。

そのせいで、色々なところで怒られたけれど、声がでかいおかげで何とか社会に居場所が作れた気がした。

家庭を持つくらいの年になると、徐々に自分の好きなように自分のことばかり話しているわけにもいかなくなった。

元々、話が長いことは自覚している。箇条書きにしろ、ワンペにまとめろ、自分自分と自分のことを言うな、いろいろな指摘を受けて、なんとかそれらの技術を身につけようとした。書くことは話すことほど得意ではなかったから、文章を短くまとめることは完全に本能ではなくテクニックの領域だった。

人前で喋ることが好きだったし、プレゼンは得意だ。毎日夜人がいなくなってガランとした職場で、その時やっていた仕事や、興味のあった出来事を起承転結箇条書きで1行ずつにまとめて10分で喋るという練習を人知れず繰り返した。ストップウォッチを持って。

きっと、お前マジでそんなことやってたの?意識高い系かよとツッコまれそうだけど、自分にとっては死活問題だった。

話すことが好きだ。書くことも好きだ。意思を伝えることが好きだ。それは自分の最大の武器でもあった。

だから、話が長い、文章が長い、くどい、長すぎて聞けない、読めない、そう言われることは、お前に存在意義が無いから死ね、と言われているような気がした。

自分の思慮や配慮や技術に拠るものだっていうことは自分でもわかっている。単に、相手に伝わるよう伝える術が未熟で、下手なのだ。

だから、仕事では徹底的にわかりやすく短くまとめるか、逆に長くなるときは穴がどこにもないよう緻密に予防線を張ることに徹した。

その頃働いていた会社は重厚長大なところだったし、その頃出入りしていたコミュニティでもそれでうまくいった。

しかし、その後転職してみたら、自分の感覚よりももっともっと、流通する言葉は短くて簡潔な世界だった。

職場文化の違いのせいもあるけど、世の中全体的に見ても情報過多で簡潔な言葉が好まれる傾向にあるというのもあると思う。

俺の言葉は相対的にますます冗長になった。「文章が長い」「長すぎて読めない」「話がくどい」「『おつかれさまです』まで読んだ」「君が喋らなければ会議がすぐ終わるよ」などと言われるのが、言葉でも文章でも定番のネタになった。

周りの人達は本音半分、冗談半分で笑いながら言うのだけれど、実は、それは結構キツかった。

自分に原因があることはわかっている。

それから、会社や友達や家族の前では、自分の話は一切しないようになった。

でも、そうやって何かを抑制しながら喋ったりモノを書いたりするのは知らずのうちにストレスが溜まる。

相当に無理が来て、相当精神にガタが出る。無理なものは無理なのだ。

だから、チラシの裏には思ったことを思いついた順番で思ったように書くし、編集も推敲もしない。

ゴミ捨て場にゴミを垂れ流して、毒を抜いて生きてる。

でも、実は俺の本質ってのはこのゴミの方なんだけどなって思ってるし、そういうゴミを拾って生きていたいと思っている。

こういう風に書いて、また「長すぎて読めない」と叩かれては死にたくなってを繰り返し。

本当はわかってる。自分はニュースキャスターにはなれなかった。

テレビの前で、朝礼台の上でゴミを撒くわけにいかないのだ。

でも、こうやってまたわざわざ吐き出して、人からツッコまれたら痛え痛えと思いながらもありがたく読む。

吐き出さないと浄化されないし、自分に都合の悪い言葉だけを選んでいたら成長はない。

そういう風にしかできない。

広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

フォローする