すずさんはなぜ終戦で慟哭したのかということについて

最近イギリスのひとが書いた「この世界の片隅に」のレビューを訳した記事にこんなブコメを付けたら星をたくさんいただいた。


で、とあるはてなユーザーさんからIDコールでこのブコメについて違和感があると真摯なご指摘をいただいたので、はてなハイクでこの点についていくつか補足を書かせていただきました。

元のやり取りは記事を辿っていただくとして、私の書いた所感を転載しておきます。
なお、「この世界の片隅に」はもの凄く凄まじく凄い映画で、わりと本気で今年一番どころかこの国の芸術史に残る作品になると思う。レビューを書くときっと長くなるので、あくまでも表題の件についてだけ。具体的なことをぼやかした書き方にしているのはネタバレ配慮でございます。

▼以下、ハイクに書いたものを転載(※一部誤字など修正しています)。元の文章は上のtwitterから辿ってください。




レビューの解釈についてですが、元々大筋において同意でき、とても良いレビューだと思っています。
少しだけ、ご指摘のとおり「報われるはずだったのに!勝つはずだったのに!」という(すずさんの声を想定したであろう)言葉をはじめ、「戦争」の視点で解釈している部分に感覚の違いのようなものを感じました。その点について補足させていただきます。
※100文字では収まらないので、こちらに失礼します。

まず、この終戦のシーンについては、片渕監督が以前のインタビューで自ら関連のことを語られていますので、そちらを前提にしたいと思います。

▼ネタバレ注意!「この世界の片隅に」片渕監督SPインタビュー【後編】

⇒“あのシーンは終戦を迎えた日本人がなぜ泣いたのか、こうのさんが「実は自分の感情では理解できない」って言われたことがきっかけなんです。”からの一文です(政治的な解釈をされることにかなり配慮した回答をされていると感じます)。

私は今のところ映画は3回視聴で、念のため原作も読み返してみました。
監督のコメントで述べられているとおり、原作者のこうの史代さんが終戦時の普通の生活者の心情について悩みながら研究、模索した形跡がヒントとして沢山埋め込まれています。

元のレビューにあるとおり、終戦時に「現実的な」「実存的な」原因による悔しさや動揺があったことは事実であろうと考えられ、ここまではまったく同意です。問題は、すずさんの生活の動機が「戦争に勝って報われたい」というものと解釈できるのか、ということです。この作品では、映画でも原作でも「戦争」を主語とした語りかけは一貫してほとんど(おそらく意図的に)されていません。
この映画は誰にもに語られるとおり、徹底して生活者の普通の生活を主役として丁寧に描いた作品となっています。戦争の是非や勝敗がテーマになってはおらず、この点はすずさんの行動原理ともシンクロしているものと信じています。

作品中、主人公のすずさんは当初一貫して外的な状況を受け入れ続けるほんわかした女性として表現されています。幼少期のエピソードから始まり、周作さんとの結婚、日々の生活の変化まで、それを状況として、前提として「あちゃー、困ったねぇ」と受け入れ続けます。
おそらく、戦争による困難も、状況としてそこにあるものとして位置づけられており、(作品ではその表現は使われていませんが)ある意味「仕方ない」こととなっているのだろうと推測します。

苦しい食生活を送り、晴美さんを失い、右手を失うに至ってもなんとか平常でいられたのは、ある意味戦争という状況が前提として、当然のようにそこに存在していたからであり、言い方を変えると「戦争という大義名分があるから」犠牲に耐えていた、ということになるのだと捉えています。
※これはもちろん戦争があって良かった、などと言うことではありません。

終戦によりこの前提が崩れてしまったとき、改めて苦しい生活や犠牲の意味が何であったのか?ということが現実に現れ、同時に感情として吐露されたのだろうと私は思いました。さらにここに同時に「正義の崩壊」が加わることで、一層象徴的なシーンになっていると感じました(ここは原作の漫画だとより直接的に表現がされています)。

ここで問題となるのは、ではすずさんは「勝ちたかった、報われたかった」のか、あるいは「勝つことで報われたのか」ということです。
本当に、すずさんは戦争に勝ちたいと思っていたのか、戦争で勝てば晴美さんや右手のことが報われたのか、そのようなことは作品中具体的な形では一切示されていません。
今となっては本当にこの国が戦争に勝てば多くのことが「報われた」のか、その答えはわかりません。

しかし、おそらく実際にはすずさんの望んでいたことはそういうことではないし、そういうことで晴美さんを失った径子さんの悲しみが癒えることも無かっただろうということは想像できます。
すずさんが状況を受け入れ、流され続けることの限界が近づいていたことは、右手を失って以降終戦までのシーンの間で既に示されています。「左手で描いた世界のように歪んでいる」というシーンの表現などはかなり鮮烈です。
こういったこともあり、「報われるはずだったのに!勝つはずだったのに!」ということでは無いのだろうなあ、と私は考えました。「前提としての戦争」があるからこそ苦しい生活を「あたりまえ化」していたものの、結局のところ、ひとりの生活者として戦争という「異常」を受け入れ、受け止め続けることはできなかった。さらに言えば、その「異常」に勝とうが負けようがそのことによって報われるということは無く、きっと、そのよう考えてもいなかったと思うのです。
言葉の問題かもしれませんが、元のレビューで惜しいなと思ったのはこの部分の受け取り方の機微についてだったのです。ここは、この国特有のあるがままを受け入れる、忍ぶ、あるいは足るを知る文化との感覚の違いなのかな?ということに興味を持ちました。

実際に、この終戦のシーン以降は、椿の着物のこと、そして青葉のシーン、原作ではリンさんのエピソードまで怒涛の勢いで「選ばなかった道との決別」と、「これから続く日常」「自分で選んだ世界」が描かれていきます。
ご指摘にあるような女性参政権のことまでがこうの氏の射程にあったはわかりませんが、実際に、生活の中での自立と再生が示唆されているのだと思います。本当にすごい作品ですね。

「この世界の片隅に」は、「普通」と「異常」、「日常」と「非日常」のコントラストが非常にはっきりと描き分けられている作品で、1コマ目から最後のコマに至るまで、徹底的に一貫して「普通であること」が肯定され続けています。
逆に「異常」について明確に言及しているのは水原さんくらいで、普通でないものを否定するような表現も見当たりません。
繰り返しになりますが、意図的に「異常」「非日常」を主体、主語にした表現を控え、一方で数少ない「異常」の表現が際立つ作品なのだと思います。これは、登場人物ごとの映像表現の違いや、カメラワークを見ても明らかです(※ここでは具体例は控えます)。

既に多くの方のレビューで語られていることですが、すずさんの右手は、これも一貫して「異常」「非日常」側を表現する「魔法の手」として表現されており、件の終戦のシーンでは、“慟哭を漏らす”すずさんの頭を撫でて去っていきます。
これは、「異常」を背負い続けたすずさんへの救い、解放であってほしいなと思いました。




▲ここまで

この映画は公開当初から片渕監督がこのあたりの意図含め数多くコメントを出しているけれど、詳細な設定やインタビューもたくさん載ってるらしいのでガイドブックやアートブックも注文しました。こんなに文献まで買いまくることになった映画久しぶりだ。




PB204659
公開中にあと2、3回観に行くと思う。
勢い余って、片渕監督の海外渡航費のクラウドファンディングにも出資してしまいました。

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