子育てに「絶対」なんてない

shitsuke

ここのところ、仕事でのできごとや、地域活動や、世間を賑わす悲しいニュースなんかが続いて「子育て」というキーワードで何か書きたいと思っていたので、いらすとやさんで「育児」「子育て」で素材を検索したらわりとネットウォッチャーっぽくて闇だった……


※いらすとやのLINEスタンプ買ってしまった。でも使う機会がない。
しかし自分自身が家庭を持つ父親なのに、「家庭や、」という書き出しになっていないあたり、仕事バカのダメ親感ある(実際、父親としてはかなりダメなのは自覚している)。

そんな今日、なんとなくはてブを眺めていたら、大人として大人に怒りをぶつけたくなる感じのブログを目にしてしまった。
長らく個人サイトに突っ込むことはやめていたし、特に最近のはてなのアレ会界隈絡みの記事は概ねスルーすることにしているのだけれど、ブコメ含めてなんとも言えない気持ちになったのでスルーできなかった。申し訳ないけど元記事じゃなくてブコメ欄を貼るけど。


若干釣りっぽいタイトルなのが既に気になるが、1行にまとめると「親は子どもに怒りをぶつけるな」という内容である。正論だし理想や目標として異論はない。これが書かれたきっかけも、おそらくここ最近のつらいニュースを受けての流れだろう。
でも、それでもなお育児というたったひとつの正解というものの無い人類の永遠のテーマに「絶対」なんて言葉は使ってほしくない。ちょっとそれについて書く。

・視点と観測範囲の問題


元記事の内容については※個人の感想ですという話だし、この人個人を攻撃する理由は特に無い。まあ信念を持って自分の家庭で実践すりゃいんじゃないかな、っていうことなんだけど、いくつかのコメントも含め、無駄なべき論を振りかざすことが様々な状況で苦労や努力をしている世の中の親を苦しめることになるのは考慮しておくべきだと思う。

だいたい、実際の世の親の90%くらいはここで理想とされているようなことは考えている(悲しいかな、100%じゃない)。親なめるなよっていう話である。現実はそううまくいかないから、子どもへの接し方や感情コントロールや愛情の持ち方を考えないとね、っていうことが肝心なんじゃないのか。
それは、ひとつひとつの家庭、ひとりひとりの父親母親を個人の精神問題にバラして抱え込ませたって限界あるだろうよ、にんげんだもの。ハードルを上げて不安を煽るよりも、家族単位、コミュニティ単位、社会単位でどう子育て(とそれに臨む心持ち)をフォローできるかを一緒に考えないと安心の提供にはつながらないだろう。

たぶん、意見が割れてコメントに一体感が無いのは、意見する人の視点や立場、年齢や家族構成がバラバラで何について語っているかが皆異なるからだ。悲しい暴力や虐待のニュースを見て「ネグレスト許すまじ」という精神状態で発せられた言葉と、昨日の夕飯での我が子との口喧嘩を思い返して発せられた言葉は当然視点が違う。その視点や観測範囲の違いを考慮しないと議論にならない。後で書くけど、子育てはひとりでやるものじゃなくて、ひとりの人間としての子どもがいて、家族や学校やご近所があって成り立つものなのだ。自分でべき論を振りかざしても誰も幸せにならない。

↑「不倒城」のしんざきさんのツイート。この人の育児記事はいつも素敵です。

・程度の問題


次に、程度問題。

「親は子どもに怒りをぶつけてはいけません」
って、基本として当然だ。そんなことは大体の人は基本的にはわかっている。でも一方で、ヒステリックに感情のままに子どもに八つ当たりを続けるひどい親がいるのも事実ではある。要するに、いろいろなケースと程度というものがあるのだ。コメント欄が荒れるのは、その「程度」を考慮しないで仮想の絶対善を作ったり、絶対悪を非難するからである。
これは個人のふわふわな思い込みじゃなくて、曲がりなりにも子育てコミュニティのシステムを開発運営したり、実際にプライベートで地域関連に関わっているからそれなりに自信を持って言える。まあ、自分自身は父親としてはダメなところだらけだけど。

現実問題として、親って言ったって人間は何かしら死ぬまで未熟な部分があるわけで、ましてや新米パパママなんて、誰だって親としてはレベル1からスタートするのである。子どもは機械じゃないんだぞ。思い通りにいかないことだって、親が泣きたくなることだってあるでしょうよ。それを理性でぐっと我慢したり、我慢したけど怒っちゃったり、怒ったあとで思いっきり後悔したりみんなしてるわけだよね。なんだって、突然論理が飛躍して「怒り=虐待」「ダメ、絶対」ってなってたら話にならないでしょ。プレッシャー上げてストレスかけすぎたって逆に家庭内暴力とか増えるだけじゃないかな。なので程度問題ってのは考慮したほうがいいと思うよ。

それにね、時には感情を出すことも大切なんじゃないのかな。普段冷静で温和な父親が、本当に必要なときに落とす雷は印象が強いでしょ。要はメリハリだと思うんだけど。
俺みたいにいっつも子供たちと同レベルでギャーギャーやりあってたらオオカミ少年にもならず妻に呆れられるけどね。

・育児の話に極論と二元論は無理だろう


ここまでで書いたように、子育てって人と人と、人と社会の関わりであり、状況も程度も同じなんてことはあり得ないので、「絶対」「こうあるべき」なんていう極論で語るのは無理無理っしょ、って考えている。
同じように、「善 or 悪」「愛情 or 虐待」みたいな二元で語るのは無理っていうか、危険しかないんじゃないかって思っている。自分の目で見て、自分達の家庭の状況を考えて、その時取りうる行動を取るしかないし、その行動にできる限りの理性と愛情とをかけていくしかできない。

怒ってはならぬ、間違ってはならぬとマニュアルを掲げたって意味がなくて、無駄に怒らずに意思疎通を取るにはどうすればいいのか、それでも我慢できなかったときはどうリカバリをしなければいけないのか、そういうことが論理と感情の両方で駆動していることを実感しながら一歩ずつ成長していくしかない。

その辺は経験則によるものが大きいだろうから、正直なところ育児をしていない人、ましてや独身の若者に体感して語れというのは厳しい。それは仕方ないし、俺だってできなかったっていうか今でも全然できていない。コメント欄に「子どもいないだろ!」「育児してから言え」というコメントが溢れてしまうのも正直仕方ないと思う。
でも、本当にまれにだけど、自分には子どもがいないのに、地域コミュニティ的な視点で子どもについて考えたり接したりということができる人がいることも事実だから、強制はできないけど「お前らにはわからない」「俺は関係ない知るか」という不毛なやり取りはせずに、社会的な目線でよそんちも見られるといいんじゃないですかね、とは考えています。はい。

・親ってパーフェクト超人じゃなくて一緒に育つものだよね


で、ここまで書いた中で散々「でも俺はダメだけどね」的な余計な一言を挟んでるんだけど、これは別に予防線を張ってるわけでも自虐ネタでもなんでもなくて、単なる事実なんだよね。我が家なんか、育児の父親参加っていう意味で言うとまるっきり妻には頭上がりません。つか、むしろ娘に怒られ、息子と同レベルで口喧嘩するレベルです。

前にも何度か書いたことがあるんだけど、俺は比較的早くに結婚して子どもができて、30代で中学生の2人の子どもがいる。
「父親になって」じゃなくて「子どもができて」という書き方をしたのは、「子どもができたから父親になった」んじゃなくて、恥ずかしながら今でも徐々に父親になっていっている、あるいはならせてもらっているという実感があるから。責任感がない、自覚がない、威厳がないと怒ってもらってもいい。俺は、父親だから偉いんじゃなくて、子どもと一緒に成長することを忘れないようにしたいと考えている。

冒頭の記事のブコメに「この記事の理想を批判する人は自分が被害者だと思っていて自省をできなくて親の資質がなくて子どもが不幸」みたいな実にIT系はてなーっぽいコメントがあって目ん玉丸くなってしまったよ。びっくりした。
まあ、そういう毒親っぽい人は確かにいるんだろうなーと普段小学校なんかに関わっていて思いはするし、そういう不幸な家庭が事実としてあって社会問題化していることは見過ごせないわけなんだけど、でもね、何度も言うように、そもそも育児に「たったひとつの正解」とか「絶対」とかって無いことは明らかなので。俺なんかもう、自省しまくりだ。寝起きで機嫌が悪くて反省、子ども達が幼かったころ楽しく動物園に行ったはずなのに子ども達を怒鳴りつけたことを思い出しては10年越しで後悔、そもそも……なんて始めるときりがない。

被害者ってなんだ。子育て大変なんですー、怒りを止められない私のことわかってー、日本死ねー、みたいな感じですかね。まあ保育園問題とかそういう社会インフラ的な不可抗力の部分は全く別の問題として、自分の家庭のことは自分が親なんだからなんとかしなきゃいけないっていう意識はみんな持ってるんじゃないのかな?ひとんちのことはわからんけど。
わかってるけどうまくできないっていうところをなんとか考える人になりたいなあとは思う。その辺も含めて、人間って神でも聖人君子でもないってことを自覚して成長することを考えないといけないんじゃないかって思いました。はい。

・一人称でワタシはワタシはと語られる育児論に感じる違和感


なんでこんなことを書こうと思ったかのきっかけになった俺の職場のできごとなんだけども。

俺は今現在、「子育て」とか「新米ママ」とか「くらしの課題」とかそういうテーマのコンテンツに関わることが多い仕事をしていて、近くの編集者のシマだったり、反対の隣にある打ち合わせ卓では、ひっきりなしに子育てのココロはどうだ、主婦層のヒキになるキラーコンテンツはどうだ、ママ感はあるがママ商売っぽさはない素敵ママのクリエイティブとはなんだとか、そういう話が聞き耳を立てるつもりはまったくなくても耳に入ってくる。

自分自身が人の親であるゆえそれなりに気になるんだけど、そういった議論が熱を帯びてくるほど強烈な違和感を感じてモゾモゾすることがあるんだよね。必要なときは意見として口出ししちゃうんだけども。それが良いとか悪いとかってのは無いんだけど、その議論をしているディレクター陣は全員が独身で、マネージャー陣もほぼほぼ独身(業界のせいなのか、業種のせいなのか)。

そうするとどうなるかっていうと、意見や議論の視座っつーか話の目線が、かなり一人称だったりするわけなんですね。「ワタシはこう思う」「俺はこうしたい」「子育ての情報はこう見せるべき」「くらしに必要なコミュニケーションとはこうあるべき」っていう感じで。
クライアントに提案する立場なので仕事としては生活感に寄り過ぎなくてベターだったりするんだけど、だんだん話が煮詰まってきて、育児とはみたいな話になってくるとそれを育児論としてて捉えた場合「ワタシがワタシが」「俺が俺が」っていう会話はヒジョーに違和感バリバリなんだよなって感じる。

子どもは一人格であって、ましてや物ではない。家庭とは集団であって、コミュニティである。親目線だったり、指導者目線でモノを言うならば一定の言葉の強さとか責任感は必要ではあるんだけれども、でも、育児子育ての話をするならば、子どもは生まれたその瞬間からひとりの人間でもあって、双方向の、あるいは家族という中でそれぞれの立場になったときにお互いがどう見えるのか、もっと言えばその家族の全体にとって一番ハッピーなのはどのあたりなのか、そういう観点がないとなんか違和感があるんだよなあ、ってことを考えている。
んで、冒頭引用した記事のコメントを読んでいて、その中のいくつかにそれと同じ感覚を感じたわけで。

・大事なのはコミュニティ単位での幸福の総和を高めること


先日、近くの立ち話でこんな話が耳に入ってきた。それを話していた女性をAさんとする。

ある新婚の夫婦がいて、第一子ができたのでできるだけ良いベビーカーを買おうということになったが、どの機種にするかで夫婦喧嘩になったという。
妻は持つもの押すのも大変なのでできるだけ軽くて取り回しがしやすい機種を希望したが、夫はどうせならでかいマクラーレンのトライクを買ってやろう、押しているときはコッチのほうが快適だし、何よりシートがフカフカだ、と言い出して決着が付かなかったのだという。

で、Aさんは最初は女性の立場に立って、そうだよね、母親は大変だしママ第一だよね、と妻の味方をしたが、夫が「ベビーカーでサービスを受けるのは赤ん坊だぞ、いわばお客さんは赤ちゃんで、俺たちがベストを尽くさなくてどうする」と意見したので、その精神に感銘を受けてでかいのを推薦して買わせたのだ、ワタシ達は自分達のことしか考えていなかった、サービスを提供されるお子のことを考えきれていなかった、お客様目線サイコー、ソリューションとはこうあるべき。
デフォルメしているが、だいたいこんな感じだったと思う(ちなみにAさんは独身っぽいけど家族構成はよく知らない)。

なるほど。親の勝手で子どもの立場をきちんと考えられていなかったから、それができるようになるのが親ですよね素敵、と。なるほど理屈はわかった。

いや、でもいやいやいや、そのりくつはおかしいだろ、と俺(耳年増)は思った。
「相手の立場とは何か」の二重構造、真理はたぶん裏の裏にある。

まず、どんなベビーカーが良いかなんてその人の生活環境と課題がわからないと答えようが無いだろう。都内で電車生活なのか、郊外でミニバンでショッピングモールな生活なのか。まず話はそこからだろうと思ったけど、その話は一旦置いとく。

もっと気になったのは、それ、本当に結果として子どものためなのか?ってことだ。
子どもはお客様じゃないし、家庭の平和はビジネスではない。その観点が抜けてないか?
自分の育児経験から言うと、たぶん、ベビーカーのシートが豪華かどうかってのは当の子どもからは大事かもしれないけど最重要ではない。子どもの幸せは家族が幸せであることで、家族の幸せは子どもの幸せだ。満員電車でベビーカーを載せられずに母親が疲弊しきるくらいなら、軽いバギーでいつも一緒にお出かけができることのほうが、家族というコミュニティ全体における幸福の総和は大きくなるのだ。(安全性を確保した上でだけど)身近で皆が快適だった思い出がたくさんあるモノがお気に入りになるのだ。これは我が家の場合、実際に娘が幼いころ本人が言っていたことなので事実だと信じている。

絶対だなんて口が裂けても言えないけれど、少なくとも俺が目指したい幸せな育児に一番大切なものは、家族の幸福の総和。親だけ良くても駄目。子どもだけでも駄目。親は子ども第一でやれるだけやるけど、不幸になったら意味が無い。
いい事だけじゃなくてどうしても怒りや苦しみが出てくることもあるだろうけど、家族単位、コミュニティ単位で結果的にどう解決すれば幸福の総和が高まるのかを考えたほうがいいんじゃないかな。人間はひとりで生きてるわけじゃないんだから。

そんな感じです。

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