卒業式

先週、息子の小学校の卒業式があった。
上の娘のときもたくさんの思いがよぎったけれど、今回はいよいよ親としても小学校最後だということで、なかなかこみ上げるものがあった。

家庭内においてダメ親認定されている俺ですらそうなのだから、長い間ずっと子どもたちと、学校と地域に深く関わり続けてきた妻は俺の語りなど遠く及ばないほどだろう。

(俺も、たぶん人並みの親程度にはたくさん思うところがあって、もちろん、子どもたちに伝えたいことは、然るべき場所で形にしたいと考えている。前にも人にSNSで心ないこと言われて言い訳みたいな前置きを書いたけれど、俺は自分の子と言えど子どもたちは彼ら自身で独立した1人の人格だと思っているし、ここでは自分自身の私的なことを書くことにしているので、贈る言葉は別の方法にして、ここには自分のことを書くことにする。あと、小学生の父親として公に書きたいことは、そっちのブログにきちんと書いた。)

当然のことだけど子どもたちにはそれぞれ個性があって、うちの場合、娘はちょっと気が強いしっかり者で、息子は明るく優しくて奔放だ。
中学生になると、勉強やら、ルールやら、色々と面倒なことも多くなってくる。それがすぐにはまる子もいれば、個性と衝突してしまう子もいるだろう。自分の息子がどうかと考えると、かつての自分がそうであったように、多少の苦労はあるような気がする。

それでも、自分の良いところを失うことなく、考え、選び、のびのびと楽しんで成長していって欲しいなと切に願う。

長いような短いような6年間が過ぎ、入学したときはまだ小さかった子どもたちは、気がつけばあっという間に成長して大きな卒業生になった。
大人になるまではまだ時間があるけれど、小学校の卒業はきっと誰にとっても、子ども自身にとっても、親にとっても大きな節目なのだ。小学校を巣立つと、いよいよ自立への道を歩み始めるのだな、という気がする。

週末には後ろを付いてきていつも一緒に遊んでいた男子も、自ら考え、自ら、あるいは友達と予定を立てて行動することが当たり前になるはずだと思う。

親としては少し寂しい気もするし、もちろん、それ以上に喜ばしいことでもある。

 

 

一方自分を省みると、俺は、全然良い父親ではなかった。
今だって、良い父親かどうかなんて怪しい。

エラそうに書いているけれど、自分のことを思い返せば反省と、しても仕方がないが止まらない後悔もあるし、褒められたものではない現実だってたくさんある。
あるべき論で言えば、子どもの話と絡めて話すようなことではないとも思うけど。

2人の子どもたちの小さいころのことはよく覚えていることとぼんやりしていることがあって、前者は子どもたち自身の日々の姿で、後者は俺自身と家族との関わりの姿だ。
今でこそ週末は毎週息子とあちこちに遊びに行っては日記を書いているけれど、それはきっと、男子2人で遊べるようになってから何かを取り戻すかのようにあちこちに行っていたのかもしれない、と思うことも多い。
つまり、俺は子どもたちが小さいころ、よくある家庭を顧みない父親だったという疑いが強く、それを痛感しているのだ。どちらかと言うと、むしろ今になって息子が俺と遊んでくれているのかもしれない。
正直に言って、今、息子と遊びに行くのはどんなことより何よりも楽しい。妻には軽蔑されそうだけど、だから、息子の成長に一番感傷的になっているのも俺なのかもしれないっていう気がしている。

 

今時の平均的夫婦よりは幾分早く、20台前半で結婚して後半に入るときには2人の子の親になっていた。
妻は当初からずっと母親たる母親だったけれど、俺がそうだったかは極めて怪しい。
とにかく暮らしを作ることで精一杯で、バリバリと仕事することで頭が一杯で、自分自身がやりたかったことや成し得なかったことを拾い集めることばかりを考えていたんだろう。書いていて恥ずかしくなるくらい、子どもたちと同じように、俺も子どものままだった。

早婚の男によくある話らしいけど、俺は子どもたちと一緒に成長した、というより、成長させてもらったとしか言えない。バリバリやっていたつもりが結局生活が滅茶苦茶になったり転職したりして、我に返った時には子どもたちは小学生になっていて、上の子はもうだいぶ独自路線をゆく感じになっていて、父親と出掛けることもあまり無くなっていた。

だから、小学生になった息子とあちこちに行ったり、小学校や地域のことにあれやこれやと関わるようになって、本当に恥ずかしいことだけれど、俺はいまさらようやく親になり直したような気すらするのだ。今も半端者ではあるけれど、怒られるかもしれないけれど、少なくとも自分の実感としてはそんなことを思っている。

後悔しだしたらキリがない。

もっと、日々の生活に気をかければ良かった。

もっと、家庭を優先すれば良かった。

会社の評価や同僚の予定に気を取られすぎる必要なんてなかった。

もっと、家族でたくさん遊べばよかった。

あまりにガキで、あまりに未熟だったので、俺も「父親にとっての小学校」で勉強しなおす必要があった。息子の小学校と違って俺には卒業があるとは思えないけれど、卒業証書を受け取る息子の姿を思い返してみて、そんなことを思った。

自分のことばっかり言って、と悪態をつかれる声がソラで聴こえそうだけれど、子どもたちはまだまだこれからも育つし、まだまだと言いつつあっという間だし、親父はしっかりしなきゃならんし、がんばらないとな、とは思う。なんせ、子どもが自立しようが、「親」には卒業なんてないのだ。

 

子どもたちが皆中学生に上がると、親の手で家族の手を引く段階がひとつ通り過ぎたように感じて、自分の人生が終盤に向かっているなという実感が現実のものとして目の前にある。
俺はまだ30代の青二才だし、自分自身のやりたいことも、やるべきことも、たぶんバイタリティもまだまだあるけれど、ネガティブな意味ではなくて、現実的な世界の認識として、自分が自分について語ることが世界の中心であるような日々はとうに通り過ぎてしまったという感じがしている。四十にして迷わず、というのはそういうことなのかもしれない。

実際のところは不惑どころか、これからどうしようという不安がてんこ盛りなんだけれども、それはまた別の話。

自分語りはここに置いていって、まずは、とにかく息子と子どもたちの卒業と前途ある未来を祝いたいと思う。

 

なお、ちょっと前にこんなことをあれこれと考えていたから卒業式は泣けるような気がしていたのだけれど、当の卒業式は始まってすぐのところが一番うるっときて、あとは祝辞を淡々と聞いたり、両手のカメラを必死こいて操作したりしていたら、後半どんどん冷静になってしまった。

そんなもんかもしんない。

自分の感傷に浸るのはほどほどにして、しっかり子どもの視点に思いを馳せろよ、っていうことなのかもしれない。

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