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我が子の出ない運動会に行くということ

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土曜日、小学校の運動会に行った。
思えば上の子が小学校に上がって以来もう9年、毎年恒例の行事だ。

でも、今年はもう卒業して中学生になった自分の子供たちはもういない。
今年は、肩書としてはおやじの会として警備の手伝いに来た。
9年前、自分の子がいなくてもこうして小学校の運動会に来ることを想像しただろうか。たぶん、まったく考えていなかったはずだ。

世の中のほとんどの父親にとって、子どもたちの小学校の運動会というのは、「我が子の姿を見るためにカメラを持って席取りに行くイベント」で間違いないだろう。実際、俺もそうだった。そして、我が子の姿を見られる家族のイベントという意味において楽しみな行事ではあるけれど、一方では席取りから始まる長い一日は疲れるものだし、できれば設営の手伝いやら人付き合いやらといった自分の家族と関係のない面倒は極力避けたいというのが本音、という人が多いのではないだろうか。

俺自身、自分が子供の頃を振り返ってみても運動会や体育祭というイベントがあまり好きではなく、大人になって、親になっても集団行動的な面倒くささみたいなものは拭いきれなかった(これはスポーツや運動が好きかどうかはあまり関係なくて、あくまでも統制や規律に対するものだと思うけれど)。だから、それでも手伝いに来るのが当たり前だという感覚になっている自分に気づいてちょっとおかしかった。


いろいろと地域のことに関わってみると、自分の家庭だけを中心に見えていた住む街の風景が少し違って見えてきて、これがちょっと面白いなあと思うようになった。
小学校のOBになってから運動会の警備を手伝ってみると、必死に自分の子の出番を気にしなくていいから校門や校外を当番で見まわっているPTAのお母さん達と交代できて、お母さん達は競技を観に行ける。駐輪禁止や禁煙の声掛けも気楽なものだ。なんせ、こちらは純粋なお手伝いだから、それほどの柵も無い。楽しいわけじゃないけど、ただ立ってるだけでも役に立てるのは嬉しい。
プロの警備にお金を掛けられる私立の学校ならともかく、公立の小学校ではなんでもかんでも教職員が運営や安全を担保するのは無理だ。自分でも気づいていなかったんだけど、9年前、俺が始めて小学生の親になったときだって、こうやって誰かが無償で警備の手伝いをしていたはずなのだ。それを実感できただけでも来た価値がある。

今年は実際児童の競技はほとんど観ていないんだけど、近所の知ってる子たちとちらほら挨拶したりするだけでもぜんぜん有意義だと思う。学校や街や地域っていうのは、こうして普通に声掛けや話ができる関係を作れることによって良いものになっていくのだろう。
地域のことに関わるようになってから、小中学校の運動会についてよく耳にする言葉に「その学校が(あるいは街が)盛り上がっているかどうかは運動会を見るとよくわかる」というのがある。曰く、運動会の雰囲気は学校と児童生徒の盛り上がりだけでは決まらなくて、親同士の連携やサポートによってまったく違うものになり、ちゃんとしている街は会場が一体となって盛り上がっていたり、理路整然と統制をとっていたりする、いわばバロメーターとして機能するのだそうだ。

わりと最近まで、自分の子が卒業したあとの学校や、周辺の他校の行事に顔を出すなんていうシーンがわりとよくわからなくて想像ができず、地主さんはじめ地元関連の人か、よほど熱心なPTAの人っていうイメージだったんだけど、そういうつもりもないのに自分がこういった行動を取るようになってみて、ああ、こういうことかとなんとなくわかった気がする。

1日出たり入ったりしていたら、娘がマンションの小さい子たちを応援しにきたり、息子は小学校で自分の同級生と合流して遊びに行ったりして過ごしていた。家庭の中での家族があるように、地域の中での家族というものがあるのだ。そんなことを考えてた。


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